真言宗 瑠璃山 龍蔵寺 略縁起



 当寺は、大化元年(645年)孝徳天皇の時、高僧日恵上人が草創開山したと伝えられます。その後、大同元年(806年)平城天皇の時に勅願寺となって坂上田村麿が七堂加藍を建立して仏法久住の霊地と定めました。また、建久四年(1194年)後鳥羽上皇のころに征夷大将軍源頼朝が五千貫の寄附をしましたので仏閣僧坊寮院など見事になり、僧侶も数多く出入りしており栄えました。今でも、頼朝の紋どころを寺の定紋としております。

 このころの堂宇は、現在地より北西へ約1,000メートルの山の中で、広い境内を有し堂々と風格を誇っていたと推察され、今でも本堂屋敷、護摩堂などの台地名が残り、仏具も掘り出され、池や礎石も残っております。


 ところが、鎌倉時代の末期より諸国の戦乱が続き、当寺も堂舎仏閣すべて朽損してしまいましたので、中興開基、長賢律師が、永正五年(1509年)後柏原院の時に上杉顕家に請うて再建をし、また歴々たる造営をいたしております。ときに、長賢律師は或る夜、夢の中で一人の老人からふしぎな歌を授かりました。驚ろいて寝たままこの歌を吟ずると、

「水常龍瀧峠於来見真之法者此蔵有云々」
    (いつもただりゆうたつそはにきてみれば まことののりはこのくらにあり)

 ということで、これより寺を「龍蔵寺」と号し、往古よりの「宝生瑠璃山」を山号に、院号を「六大院」と袮しました。

 しかしながら、仏法の興廃もまた時運によるところが多く悲しいかな、天正七年(1580年)、徳川、豊臣の合戦のころ、多くの末寺をもって僧兵たてこもるという真言寺院の特有の形がかえって仇となり、尽く焰焼させられる不運に遇い、御諭旨、御朱印以下仕物まで灰燼となり、以後地領も離散し堂舎仏閣もおとろえてしまいました。

 その後、江戸時代に幾分復興し、寛政四年(1793年)に再建してより、七堂加藍を連ねて偉容をほこり、末寺も三十六ヶ寺を数えました。現在の台地に移転した年月は定かではありませんが、今の本堂の建てられた約170年前ごろからの文書はかなり残っております。

 徳川時代には朱印地も多く、お駕籠に乗って殿様に面会に行くなど豪勢な時もありました。明治のはじめに火災に遭った薬師堂が再建されて、総萱ぶきの加藍が揃っておりましたが、昭和三十六年(1961年)の台風をまともにうけて、またも堂舎や樹木が倒壊し、農地解放と相まって、整理改革の止むなきに至り現在に及んでおります。

 本堂の薬師如来は、浄瑠璃世界の教主、医王善逝の尊体で古くから信仰されており、秘仏(立像)と、御前立(座像)の二体あり、平安~室町時代の作といわれております。  

 やくしぶつ ねがいひとびと  みのやまい こころのやまい いえざるはなし 

 その他、日光菩薩、月光菩薩(秘仏)、十二神将、不動明王、弘法大師、仁王、地蔵菩薩などの木彫仏像が安置され、古筆の仏画や多くの経文も保存してあり、古くから近郷の信仰を集めた寺院のおもかげを偲ぶことができます。 
      
              (昭和四十八年五月 第六十三世 樺沢賢教 合掌)
              (1973年 5月 第 63 世  樺沢賢教 合掌)
    * 昭和五十五年(1980年)三月、本尊薬師如来(秘仏) 長岡市文化財に指定 

 
 
薬師仏(やくしぶつ)  願い人々(ねがいひとびと)  
身の病(みのやまい)  心の病(こころのやまい) 
言えざる話(いえざるはなし)

  薬師仏 願い人々
    身の病 心の病
      言えざる話

 親沢町内の旧威光寺の参道入口の六地蔵等の石仏群を・・・龍蔵寺の境内へ移転  2015年9月

              2015年平成27年9月22日
 
 
 平成27年 2015年 9月15日  長岡市 親沢町 龍蔵寺住職 樺澤賢教

檀中の皆様へ
 拝啓 暑い夏の終わり秋の好季節となって参りました。皆様方からはいつも御厚情をいただき、厚く御礼申し上げます。
 さて、今回手紙を差し上げましたのは、春の壇中総会でちょっと話題になりました、親沢町内の旧威光寺の参道入口にあります六地蔵等の石仏群の移動について御賢祭御諒(りよう)承(しよう)をいただきたいお願いであります。
 そもそも威光寺(檀中なし・龍蔵寺の末寺)は、古くからの寺でありますが、江戸時代の末ごろから無住となり、遂に明治の末期に廃寺され、龍蔵寺に合併されました。しかし、その山道の入り口にある石仏群(六地蔵・庚申塔・二十三夜塔などの計十二の石仏)はそのまま現存しております。しかし近年石仏・台座等の一部が破損してしまい、且つ車社会となって参拝する人もあまりいないという状態になってまいりました。

 最近通行人からも注意されるように、車道に面した石垣の上の仏像様によって事故が起きたら大変だと懸念されるようになりました。最近、全国的の大被害のニュースもあり、もしこれによる事故が起きたら大変という思いが強くなり、降雪前になんとかせねばと深く考え、総代会も開いてご意見を伺い将来のことも思って至急に龍蔵寺の境内に移転することにいたしました。
また、上除町の片桐行雄さんが「八尺、石燈竜」を御寄進下ださるということで、同事作業にて、観音堂の前に建てさせていただく予定です。片桐行雄ご夫妻は前にも修業第師像の前の石燈竜一対(二基)御寄進お五心亭 頂いた方です。紙面を問うして皆様と共にご厚志のほど黒子から厚く御礼申し上げます。
 龍蔵寺携帯の移転の位置は、冬期間の除雪などを考慮して駐車場前、車庫の傍ら( 仁王門にゆく道の右側)にする予定です。

 次にこの機会に皆様にとくとお願いしたいことがあります。
 それは龍蔵寺の参詣口は仁王門であります。寺に参拝に、おいでの節は、少しゆとりをもってお出かけの上、駐車場から観音堂や今度移転する地蔵様、庚申さまなどを始め、諸佛をお詣りして、正面から仁王門を通って本堂にお進みになるよう、お願いいたします。
 近年(除雪などのこともあって)経堂の前の道を改装致しましたが、この道は主として寺族の出入りや商用などでおいでの方々の便を考えて広くいたしました。お帰りには修業大師像や経堂内の弘法大師座像にお詣りをしたり、お墓まいりの帰りなどご利用いただけたら、こんな道も大変お役に立つのではないかと存じております。但し、冬期間は除雪の関係から、この道を往復していただき度く存じます。

 私、長い間、住職としていろいろのことをさせていただきました。特に昭和36年秋の台風による大被害により皆様には大変ご遠慮いただき感謝の至りです。  賢教 合掌